人生に疲れた時に心が軽くなる一言説法

なるほど〜、そうそう、というような心がホッとする一言を綴っています。

『最も大きな結果』

相撲の世界に「3年後の稽古(けいこ)をせよ」という言葉がある。「3年後に勝てるようになるような稽古を今しなさい」という意味だ。相撲における3年後の稽古とは、「四股(しこ)」や「てっぽう」のこと。

『人生』

『少年老い易く、学成り難し』やらなければならないこと、やりたいことは数多くあれども、本当にやるべきこと、心からやりたいこと、自分の【出世本懐】に一点集中していきたい。

『自利利他』

「ほしい」という発想を頭からはずして、どうしたら、この人に喜んでもらえるか、という問いを真剣に考えてみるところから努めていったらどうだろう。遠回りのように感じるが、堅実に自分も恵まれるようになっていくだろう。

『明日のことを今日する』

今日のことは今日済ませよといわれるが、明日のことを今日するよう心がけねばならぬ。臨終になってあわてても手遅れである。

『沈むな、浮かぶな』

一つ叱られたら、みんなダメだと落ち込む人が多い。一つほめられると、全部よいように自惚れる人も多い。

『幸せのタネマキ』

シドニー・スミスは、おもしろいことを言っている。「少なくとも一日に一人を喜ばせよ。十年すれば、三千六百五十人を喜ばせることになる。一町村あげて喜ばせる、寄付金を出したのと同様だ」

『禅定』

明らかな自己のミスでも、10の中の1でも言い訳のきっかけがあればその1を針小棒大に10の中の9はそれが原因だったかのように思い込むのが私たちの常だ。たとえ10の中1しか自分に非がないとしてその1を謝罪し、反省したい。

『女性力』

戦後間もないときに、サンヨーが洗濯機を開発したときに、「女性を洗濯の苦労から解放し、町に買い物に出るゆとりを。そうあってこそ日本は復興する」といった。今の日本も復興の鍵は女性なのかもしれない。

『何のため』

「情けは人のためならず」 人に情けをかけるのは親切する人の徳になる。あの人のためにやっているんだ。あの人のためにしてあげてるんだ。と思い続けるものではありませんよ、というのが「情けは人のためならず」人に与えているのは自らの徳と信用の元を築い…

『相手の立場に立つ』

クラスでいじめがあると、子供にとっては一日の大半を過ごす、世界のすべてといってもいい場所でそんな境遇にさらされたらとても生きていけない気持ちになる。ところが大人からすると、1年、2年の人間関係くらいなんで我慢できないのか、たわいもない感情…

『禅定』

勝手に人のこと悪く言いやがって、とプンプン怒る前に、嫌われるような自己を少しでも改善していき、好感度がアップするよう努めなければならないのは言うまでもない。

『たゆまぬ歩み』

「おそろしや たゆまぬ歩み かたつむり」といわれる。 あの歩みの遅いカタツムリでも鬼瓦の頂上まで上るようにたゆまず続けることに今後もこだわりを持っていこう。

『一水四見』

仏教に“一水四見”という言葉がある。一つの水を・人間界は飲み物と見る・畜生界の魚は住処と見る・餓鬼界の者は炎と見る・天人はルリと見る。立場や都合が違うと、その評価、見方もガラッと変わってしまうことをブッダが説かれたものだ。

『なぜ生きる』

はるか宇宙の様子が分かっても、素粒子の世界が解明されても、30億の遺伝子が解読されても、依然として分からないのが私自身であり、私が生きている意味だろう。

『反省の有無』

何かミスを犯して一方的に責められたときにはこうなるにいたった言い訳の心が山ほど出てくる。しかしあくまでも反省すべきは「私がああいうことさえしなければ、こういう結果は起きなかった」という歴然たる己の非だろう。

『ひと味違う』

外国の人に、「あなたに会えて良かった」「日本人と触れて、こんなことを学んだ」と言ってもらえるものを提供できないか。日本独特の感性や思想が、とても外国人には新鮮で、「人生の見方が変わった」と喜ばれることがある。

『言辞施』

「明るい言葉は人の鼓膜を明るく震わせるということです。明るい言葉には明るい振動があります。」村上春樹『1Q84』の一節にあった。

『後生を考える』

死んで妻の元へ行きたい。と自殺する人もあるが、実際はどうなのか、会えるものなのか、ということだ。自殺者はあまりに辛くてとにかくこの苦しみから逃れたい、一心で死を選ぶのだろうが死んだらどうなるか、真剣に見つめてどうか思い留まってもらいたい

『人間の実相』

全人類は老いと病と死に向かって進んでいる。レディーガガも、一人この不安にため息つく時が幾度もあるはずだ。人気商売の人は、自分がいかに元気で幸せか振舞うが内心は一人、自分の老いていく姿に目を向けてため息つく一個の人間である

『たゆまぬ錬磨』

出陣前日に悪い卦だからと騒ぐ家臣を一蹴して秀吉は山崎の戦に臨んでる。戦は直接槍を交えるまでの事前工作で決まる、合戦に及ぶ時節には100%勝利が確定している状態で臨むべし、との信念で事に臨んでいる秀吉には迷信は何の動揺を誘うこともなかった

『全員から好かれる人はいない、全員から嫌われる人もいない』

釈尊を当時の人は3分の1は尊敬、3分の1は嫌い、3分の1は無関心だった、と言う。釈尊でさえなのだから、私たちのような者は嫌う人がいるのは当然だ。目先の評価に一喜一憂して遠大な未来を見とおせない。誹謗を泰然自若と乗り切らねばならん時もある

『人生のゴール』

「あきらめたらあかん!」「とにかく生き抜かないと。」とみな訴えている。しかし、「どこに向かってなのか」「ゴールは一体どこなのか」

『心は火の元』

「失言、失言、忘れて、忘れて。」と言われたって、その人の口に出たのはやはりその人の心の現れでしょう。心にないものは口に出てきませんから。それはあたかも川の上流と下流のようなものだ。

『功を成す』

カエサル、諸葛孔明、竹中半兵衛。それら今に名高い名将、軍師たちは敵を前にして「あ~あ、もっと兵隊の数があればなぁ。」とか「ちくしょ~、城の堀があと2重3重深ければな!」と我が身の不遇を嘆いて周りに八つ当たりするようなことはなかった。

『他因自果』

ユダヤの格言「人は転ぶとまず“石”のせいにする。石がなければ、“坂”のせいにする。そして、坂がなければ、“靴”のせいにする。」

『溺れる者はワラにもすがる』

【溺れる者はワラにもすがる】ワラにすがったところで、助かるものではないと冷静な時はわかっているのですが、溺れると必死ですから、すがってしまう。船の設計技師でもワラにすがる。

『立ち向かう』

「叱られまい。」とすると苦しくなる。覚悟を決めると苦しくない。苦しみを凝視して、「よーし、その正体は何か見極めてやろう。」と向かっていく。案外たいしたことない。気持ちを切り替えるまでが修練の時。。

『流転輪廻』

食べるために働いて、働くために食べて、そうこうしているうちに歳だけは取っていく、自分を変えたい、この閉塞感を何とかしたい、何かないとやり切れないほど人生がつまらない。これはほかならぬ生きる意味を知らない人類のうめきの声だ。

『無常とは』

事故災害、事件を報ずる世のニュースが、毎回「これでも気づかぬか」と無常(死)の実態を見せてくれている。しかしどんな無常の嵐もどこ吹く風で「まだまだ死なない」親が死んでみせても子供が死んでみせても「自分は大丈夫」と思いこむ。

『しばらくの縁』

処々方々から集まって、同じ船に乗り合わせて進んでいるが、岸についたら思い思いに散っていく。向こう岸に着くまで、と知らされれば、どんなに気に食わぬ相手でも懐かしくもなるだろう。